3月30日
志村けんさんの訃報が日本列島を駆け抜ける。
29日にご逝去されたそうだ。
煙草もお酒もやめられない、ダメ〜なとうちゃんのコントが大好きだった
「最後!最後の一服!…か〜、うまい。やっぱタバコはやめられねえな、酒をやめよう」
「これが最後の一杯だ。…うめえな〜だめだ!酒はやめられない!タバコをやめるぞ」
というのを延々繰り返すだけのコント。
昭和のだめなお父ちゃん像として、ばかだなあ、という愛らしさに満ちていて大笑いしました。
Twitterではバカ殿の画像や動画が当投稿されて、
懐かしみ、悲しむ声とともに、
今じゃ考えられない女性の裸などについての批難が数多く見られる。
画像を貼ったりおもろいこと言いたがるのもわかるし、
逆に志村さんというかテレビ局というか時代というか?を、
批難するのも、まあわからないこともない。
まあでもさあ、亡くなったんですよ。
志村さんは。
そして少なくとも昨日まで志村さんはわたし達と同じ時を生きていて、
今はおっぱいぽろんをテレビに出しちゃいけないこともわかってたわけですよ。
それでもずっと、コメディアンだったんですよ。
時代は変容するし。
何年か前にバカ殿をやった時はおっぱい出したりしなかったでしょ。
その議論と志村さんの死は、もっと遠いところに在ってほしいなあ。
批難してる人達もそういうつもりじゃないかもしれないけど、
投稿したアカウントをリツイートして責めることは、
なんだか死んだ志村さんを刺してるように見えてちょっと残念です。
批判が悪いとは思わないし、
みんなの志村だからみんなに愛されてみんなに嫌われて仕方ないけれど、
もっと優しい言葉で送りたいものです。
ご冥福をお祈りいたします。
***
と、しむけんショックを筆頭にコロナが日本を、世界を震撼させている2020年。
3月30日、今日はわたしの誕生日。
生まれた瞬間以来じゃないかというほど、誕生日に泣いている。
生きてることってこんなにも怖くて不安。
今は会えないけど、いつか落ち着いたらご飯食べようね、なんていう連絡をしてたら、
戦時中もこんな感じだったのかしらと感じてまた怖くなった。
日用品やマスクが買えなくなって、「マスクの作り方」なんてものをみんなで教えあって流布してってとか、
そんなのも戦時中みたいだってずっと思ってた。
不要不急の外出自粛とか文化の規制(まあ文化の規制というか、文化の機会を規制、かなあ)、
贅沢禁止!とか、そういうのに近いものを感じる。
こわい。
苦しくて泣いてしまう。
弱くて、情けない気持ちにもなる。
でも今日は誕生日だからね。
ほかの誰でもない、わたしの。
だから、自分が自分を誇りに思ってあげて、
みんながわたしを祝ってくれたように、自分自身を祝ってあげなきゃ。
こんな弱音吐いてダサいなって思ってるけど、
無理もしない。
強がらない。
わたしはわたし。
***

〇1987年3月30日(0歳)
東京都江戸川区で生まれました。
松坂大輔投手が生まれたのと同じ病院って話なんだけど、本当かなあ?笑
〇1989年3月30日(2歳)
2歳になるちょっと前から、アメリカ合衆国にいました。
わたしの物心はニューヨークで芽生えます。
〇〜1994年(7歳)
アメリカでの誕生日は毎年とっても楽しかったです。
6歳の時にTシャツ作って、7歳が念願のDiscovery Zoneかな(キッズ向け室内アスレチックパーク、一日中遊んでいたい夢の国)
学校では誕生日の生徒のお母さんがクラスメイトのカップケーキを作ってくれるので、
うちの母も作ってくれた。
嬉しかったなあ。
クラスメイトが誕生日のときもいつも嬉しかった。
カップケーキ食べれるし、バースデーはお祝いだから楽しいし、歌を歌ったり。
家でも友達呼んでパーティー開いて。
イースターが近いから庭に卵を隠してエッグハンティングをする企画を母がやってくれた時もあった。
友達のバースデーパーティーに行くときは母と一緒にカードを買いに行ってプレゼントを選んで。
日本人同士でもそういうことをしてました。
〇1995年3月30日(8歳)
8歳になる直前に帰国したので、その年の誕生日は日本だったのかな。
帰ってくるついでに旅行しまくってたからどこで誕生日を迎えたのかわからん
ハワイかどっかの空港で麻原彰晃の写った新聞を見たの覚えてる、その年。
〇1996年3月30日(9歳)〜
日本の暮らしが嫌だなあと思う反面、
結局日本人の方が意思の疎通はできたなと今になって思う。
アメリカ人の友達とは当然ながら英語で会話してて、難しいこともあった。
でも、YUKA!ってめっちゃ仲良くしてくれた子もいた。
日本でもちょっとずつ喋れるようになっていった。
アメリカのこと話すと「自慢〜?」って言われるのが嫌だった。
日本でもお家で誕生日パーティーをした。
日本では大好きなセーラームーンが男子から「ダサい」ものとされていることを知り、こっそり好きでいた。
部屋のセーラームーングッズは友達が来るときに隠した。
なかよしを買うのもやめ、りぼん一党になった。
漫画も古本屋に売ってもらった。
でも家ではこっそりイラストを描いたりしてた。
ほぼ隠れキリシタンだった。
ジュピターが大好きだった。
〇1999年3月30日(12歳)
小学校の卒業式の前日に千葉に引っ越した。
中学受験をして江戸川区にある女子高に通うことが決まっていたので、千葉の学校に通うことはなかった。
地元に友達がいないので、何度か小学校の時の友人たちのところへ遊びに行った。
この年の誕生日もそうだったような気もするが覚えていない。
引っ越すときに、大好きだったセーラームーングッズやアメリカ時代から共に過ごしたLEGO・リカちゃん・ジェニーちゃん・バービーなどを捨てた。
嫌いになったわけではない。
「子供っぽいから」と理由をつけて、「ださい」とされるものから決別したかった。
要はかっこつけたかっただけ。
でも、そうした部分があるから今でも子供っぽいものやアメリカっぽいものが好きなのかもしれない。
幼稚な自分と決別できない。
〇2000年3月30日(13歳)〜
新しい友達と迎える誕生日。
いまでも一緒にいる、一番の友達と出会えた。
もう何も隠さなくてよくなった。
隠れキリシタンじゃなくてよくなった。
ロンドンの帰国子女の子とはお互いの心境を分かりあった。
部活も違ったけど、いつも一緒に遊んでテスト勉強もした。
プレゼントも贈りあった。
今日もLINEをくれた。
かけがえのない人たち。
部活の同学年も本当によくしてくれた。
先輩に勧誘してもらえて演劇部に入った。
惹かれたポイントは一番の美女に「合宿楽しいよ」と言われたからという我が軽率さ。
おかげで今に至る。
なお合宿は地獄でもあった。
楽しいのも事実だが我が演劇部は書くに書けないおもろすぎることがたくさんあるのでこれは胸の中に。
〇2005年(18歳)
大学では友達はいなかった。
根が消極的で人見知りなので6年ぶりに友だち作ろうとしたらもうわからなくなった。
男子の存在と、男子がいるときの女子の存在もまた難しく、
中高6年間で軽くジェンダーをこじらせた自分にとって大学はなんとなく居心地が悪かった。
特に1年間の「クラス」となる語学の授業。
BLEACHが好きなオタクと共鳴し、「藍染が!!!」とか言ってケタケタ笑ってた。
〇2006年3月30日(19歳)
誕生日は彼氏と過ごすことが多くなった。
家でも祝ってもらう。
ここまで書いて気付いたが、家族に祝ってもらわなかったことがない。
なんたる幸福。
中学からの友人にも祝ってもらう。
サークルでも祝ってもらう。なんだかんだ幸せ。
〇2008年3月30日(21歳)
この日のことは今でも覚えてる。
劇団おぼんろ『月が、』(今はなきタイニィアリスで4月に上演)稽古中、
学生会館の稽古場でいわゆる「サプライズ」をされた。
たぶんそういうバースデーは初めてだったんじゃないかな。
新しいシーンの台本が配られて、
「さっそくだけど立ってやる。みんな歩きながら読んで」と演出の末原の指示があり、
言われた通りにやってたら自分の台本とみんなの言ってる台詞がなんか違くて「置いてかれてしまった…!」と思ったら電気が消えてローソクがー、というやつ。
今にして思えばベタベタなんだけどね、びっくりして嬉しくて泣いちゃったね。
〇2011年3月30日(24歳)
3月11日に震災が起きて出演予定だったたすいち『FIRE LIGHT』は中止になって、
自宅近辺の液状化により家が傾いて、
色んな要因で情緒不安定になった。
誕生日の日には発熱したり結膜炎になったりしてた。
とにかくへこんでた。
次の舞台は8月だった。
しばらく予定がなかったが春のいつだったか、ひょっとこ乱舞(現アマヤドリ)の広田さんから連絡があり、
ひょっとこ界隈の人々とBSのドラマのシーンを作って出演した。
あれが5月に出来たのは救いだったように思う。
みんなで早朝から集まって、撮影とは言えひょっとこイズムでシーン作って、
2日目は早々に終わったから池袋で11時から19時くらいまで飲んだくれて。
家は傾いたままだったけど、気持ちはいつの間にか立ち直っていた。
(家も数年後にまっすぐになりました)
〇2015年3月30日(28歳)
前日の3月29日がアガリスクエンターテイメント『紅白旗合戦』千秋楽だったので、
「お祝いしてくれるかなー」と期待していたら、誕生日の近い川添美和ちゃん(3月20日)と同じ日に祝ってもらった。
美和ちゃんは年下だと思ってたので、年上と聞いて驚愕した稽古初期。
〇2016年3月30日(29歳)
この年の元旦付けで津和野くん・甲田くんとともにアガリスクに加入。
劇団員になって最初の誕生日も稽古場で祝ってもらえました。
しむじゃっくpresents『わが家の最終的解決』。
初めて劇団に入って、名義は本公演じゃないけどほぼ本公演で「やりたい」って言ったヒロインの役をもらえて、
わーいわーいってなってた誕生日でした。
公演期間中に津和野くんと冨坂さんも誕生日で、同じ5月13日で、
ケーキを焼いて劇場に持っていきました。
毎年お母さんに作ってもらってる、ニューヨークでなんちゃらおばさんに教えてもらったケーキ、
を教えてもらって作りました。
名前がわからないからこう呼んでるんですけど、実際名前ないのかしら。
サワークリームチーズケーキ?とか、そんな感じ?
〇2020年3月30日
新型コロナウィルスが猛威を振るって世界中で70万人の感染者、3万5000人近い死者を出し、
多くの演劇公演が中止になったり、
イエローモンキーのライブが中止になったり、
プロ野球開幕が延期になったり、
東京オリンピックが延期になったりしている。
そして志村けんさん(享年70)の訃報が届いた今日。
延期も中止もできないわたしの誕生日。
悲しみのほうが多くて、押しつぶされそう。
たまたま昨日、自分が5歳のときの日本への一時帰国のときのビデオを見て、
思いのほか自分がぶっきらぼうで、
子供らしさもあるにはあるけど、
なんていうかストレス抱えてそうだしあんま喋らないし緊張感漂う子どもで(笑)、
母が心配そうに見ててくれてるし、
おじさんやおばさんやいとこや兄が面倒見てくれてたり、
優しくしてくれてたり、
いまさら過ぎるけど感謝の念溢れてきた。
多少警戒感の強い子供だった(今もか)のは覚えてるけど、
本人はわりと呑気に生きてた気がするので、
もっと愛想よく出来る子ならよかったのに〜かわいくないわね〜と思いながら見てた。
でも、自分の子なら、家族ならそれでも愛せるんだね。
そんなことがわかってしまって、
やっぱり幸せなんだよと思う。
大人になったいまでも、
自分のこととか劇団のこととかばっかで周りを見てないこともあるだろうから、
わたしも周りの人を愛していきたいと思いました。
思ってるだけじゃなくて、伝えたり、行動したり、
どうしたらみんなのように優しくなれるのか、考えて。
つらい苦しい今だから、メンタルが弱ってこういうこと書いたりしちゃうのかもしれないけど、
でももう見失わないで、
大切なものにやさしく触れて、
目指すものをを力強く追いかけて、
大人になっても少年で少女で、
女性であっても男性に憧れて、
自分だけど他人になりたくて、
ボーダーレスな強くてやさしい存在になりたい。

こちらが今年の「お母さんがニューヨークでなんちゃらおばさんに教えてもらったケーキ」です。
美味しいケーキはたくさんあるけど、世界一好きなケーキはこれ。
***
有芳(ゆか)
この名前は本名です。
あまり同じ漢字の方には出会いません。
6歳くらいのころ、セーラージュピターが好きすぎて、
母に「まことに改名してほしい」と頼んだことがあります。
でも、有芳って名前を漢字で書くようになって、「芳」の意味を知ってから、
自分の名前が好きです。
どんどん好きになります。
お母さんには変なお願いして悪かったと思っています。
まだまだ無名だけど、女優として一人でも多くの方にこの名前を覚えてもらえたら、
それがわたしにとっての誇りです。
***
最後に、誕生日のお祝いにメンバーの津和野くんが詠んでくれた短歌をご紹介します。
八重桜 柔らかい花と強い幹 二つが有って芳しきかな
クマガイ(Wikipediaより)津和野くんがツイートに添えてくれたこちらのリンクもぜひ読んでください。

photo by 池内理紗